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愛の画家シャガールとロシアのアヴァンギャルド芸術【陶酔の革命時代】後半

■幸福な時代を迎えたシャガール夫妻の暮らしの中にあった革命の熱狂と混乱、そして希望が導いたものとは何だったのでしょうか。

■後半となる本記事では、ロシア革命時代のシャガールとロシアのアヴァンギャルド芸術の関係について深堀りします。

◆目次◆

( 前回の記事 ) 愛の画家シャガールとロシア革命
1.1.シャガールの生い立ちとパリ時代 : 1887 – 1915年
1.2.自己主張するシャガールの自画像 : 1917 – 1918年
1.3.ペトロラード時代のシャガールとボルシェビキ革命 : 1917年
2.故郷ヴィテプスクでのシャガールとベラ : 1918年
2.1.シャガールと革命的な陶酔の時代 : 1917 – 1920年

(本記事はここから)
愛の画家シャガールとロシアのアヴァンギャルド芸術

2.シャガールとヴィテプスク: 1918年
2.2シャガールとヴィテプスク人民芸術学校
3.1.シャガールとロシアのアバンギャルド芸術: 1918 – 1922年
3.2.グループの誕生: 1920年
3.3.シャガールによる左翼芸術
まとめ

シャガールと故郷ヴィテプスク

シャガールとベラの肖像

シャガール、モスクワへ行く

1918年のモスクワ。

ある秋の朝、1人の男が公立教育人民委員会に現れました。

男は30代で、腕に大きな包みをかかえています。

べラルーシの街ヴィテプスク(Vitebsk)から電車ではるばる10時間以上かけて、新しい首都モスクワまでやってきたのです。

彼の名はマルク・シャガール(Marc Chagall)

男は画家で芸術家でした。

シャガールの目的は、1914年以前にパリで知り合ったアナトリー・ルナチャルスキー(Anatoly Lunacharsky)に会って、自分で選んだ最新作を見せることでした。

ヴィテプスク人民芸術学校の設立

シャガール(中央左)とヴィテプスク人民芸術学校

シャガールは、芸術教育を受けられずにいるヴィテプスクの若者を助け、自分のようにユダヤの血を引く貧しい人々を支援しなければならないと感じ始めます。

そこで、故郷ヴィテプスクの街に年齢制限なく無料ですべての人に開かれた革命的な芸術学校を開校しようと思いつきました。

Chagall, SelfPortrait with Easel , 1919

ボルシェビキの価値観を完璧に体現したこのプロジェクトには美術館の設立も含まれ、1918年人民委員長アナトリー・ルナチャルスキーが実行に移します。

マルク・シャガール《コテージの平和–宮殿での戦争》1918年
モスクワ国立トレチャコフ美術館所蔵
(※10月革命1周年記念のヴィテプスクの装飾パネルに用いられたスケッチ)

プロジェクトが始動すると、ルナチャルスキーはシャガールを10月革命の最初の記念祭のキュレーターに任命しました。

シャガールはヴィテプスクの画家全員に、彼が準備した絵の中からパネルや旗を作るよう招集しました。

この時の事を後に自伝『わが生涯 』の中でこう綴っています。

街中で、私の色とりどりの動物が揺れて革命で膨らみました。労働者たちは国際歌を歌い続けました。私は彼らの笑顔を見て、私のことを理解してくれたのだと確信しましたが、指導者や共産主義者たちはそれほど満足していないようでした。牛が緑色で馬が空を飛んでいるのはどうしてですか?マルクスやレーニンとどんな関係があるというのでしょう?

マルク・シャガール自伝『わが生涯』
マルク・シャガール《キュビスト・ランドスケープ》1919年

マレーヴィチカンディンスキーのように、他の芸術家たちが政府と契約するのを見てシャガールもムーブメントに続きます。

彼は孤独なアトリエから出て『青年同盟』の会員になりました。

その後、右翼グループから未来派の左翼まで、現代美術の傾向を全てまとめた芸術労働者組合の代表を務めたのです。

シャガールロシアのアヴァンギャルド芸術 : 1918 – 22

リシツキー《プロウン》1922年 ニューヨーク近代美術館所蔵

シャガール、リシツキー、マレーヴィチ:ヴィテプスクのロシア・アヴァンギャルド

マレーヴィチ《シュプレマティズム》1916-17年 ロシア・クラスノダール美術館所蔵

1918年から1922年の間にシャガール、リシツキー(El Lissitzky)、マレーヴィチを中心にヴィテプスクで芸術運動が発生します。

この運動は、1919年にシャガールが指揮を取って開校したヴィテプスク芸術学校の開校から始まりました。

シャガールがロシア・アヴァンギャルド芸術を代表するリシツキーやマレーヴィチをこの学校に教員として招くと、マレーヴィチはウノヴィス( UNOVIS:新芸術派)と呼ばれる美術史上初めての芸術集団 “The New Art of Champions”を設立。

グループの誕生:1920年UNOVIS

Lev loudine《キュビズム》1920年代初頭

マレーヴィチが考案したUNOVISは、メンバーが《アーティストではなく、クリエイターとして自己を認識する集団のために個を犠牲にするユニット》でした。

匿名で制作された共同作品は、まず最初にヴィテプスクで、その後、他の都市でもパブリックスペースを中心に展開していきます。

こうして発展したロシア・アヴァンギャルド芸術運動は、1917年から1932年のロシア革命時代に最盛期を迎えました。

シャガールによる左翼芸術

マレーヴィチ《黒の正方形》1915年

ヴィテプスクのファインアートコミッショナー、アカデミーのディレクター兼教授として、私は彼らに、キャンバスに描かれた正方形はオブジェであり、椅子や箪笥以上でもそれ以下でもないと伝えました。

彼らはもし私のアカデミーと学生たちを支配することができたら、白いキャンバスに描かれた黒い正方形は勝利の象徴になり得る…そう考えていました。

しかし何に勝つというのでしょう?

キャンバスに描かれた惨めな黒い正方形の中に、私は色の魅力を見つけることができませんでした。

マルク・シャガール 『回想 』1970年
マルク・シャガール《円とヤギの構成》1920年

造形への深い愛着によって、パリで当時流行したキュビズムの芸術家たちと自分を区別したシャガールは、1919年から1920年の冬、彼の学校で頭角を現したシュプレマティズムの芸術家たちに挑戦して個人主義芸術を追求し、独自のメタファーを練り上げたのです。

マレーヴィチと対象物がない芸術的文法の転用を好む彼のグループUNOVISが確立したシステムに、シャガールは反対でした。

それは、シャガールにとって間違いなく異質でした。

シュプレマティズムの支持者が匿名の共同制作を擁護する一方で、ジャガールは自画像を描いては自分の名前を派手に書き入れて自分の存在を示します。

窓越しの横顔

彼の作品に定期的に現れるモチーフ、傾いた景色や人物は、革命によるロシアの急激な動揺を現していました。

シャガールは回想録の中で、こう綴っています。

レーニンはロシアをひっくり返し、私は自分の絵をひっくり返した。

マルク・シャガール自伝『わが生涯』

まとめ

マルク・シャガール《私と村》1911年

◆パリ時代のシャガールは絵画の一部にキュビズムの要素を取り入れましたが、自分とキュビズムの芸術家たちを区別して、自画像の制作に専念します。

◆ヴィテプスクに帰り、一度は幾何学的な構成主義のレッスンに取り組んで故郷ヴィテプスクに芸術学校を設立。しかし、シュプレマティズムに違和感を覚えたシャガールは詩的で幻想的な写実表現に傾倒していきます。

シャガールは キャンバスに描かれた惨めな黒い正方形の中に色の魅力を見つけることができませんでした。

◆マレーヴィチのシュプレマティズムと彼のグループからは完全に距離を置き、造形への深い愛着によって人物や動物をメタファーに独創的な表現活動を行います。

こうしてシャガールは、シュプレマティズムの芸術家たちに挑戦して個人主義芸術を追求し、独自のメタファーを練り上げたのです。

シャガールの芸術への旅は、まだ始まったばかり…。この後、シャガールとベラにどんな運命が待ち受けているのでしょうか…?
というわけで、今回は以上となります。

» 本記事前半『愛の画家シャガールとロシア革命』もどうぞ

gypsycats

Paris Diary written by gypsycats from Paris France フランスとパリとアートを愛しています。アートやファッション、小旅行など様々なことを綴ります。

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